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  • 2011.02.11 Friday
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    第八回「死後の感情」

    • 2011.02.11 Friday
    • 01:30
    月島です。遅ればせながら、皆様はどのような2011年をお迎えになったでしょうか。
    ご挨拶が大変遅くなりましたが、本年も、まったりとこのブログは続いていくと思います。どうぞよろしくお引き立てのほどをお願い申し上げます。

    さて、私の個人ブログ等をご覧いただいている方はすでにご存じかと思うが、昨年末、私の伯父が亡くなった。
    この伯父の話に限らず、実は昨年は、私にとって久々に、知り合いの方の訃報を聞く機会が多い年でもあり、かなり精神的動揺が激しい年であった。小学校時代の同級生、かつての職場の同僚の方など様々であるが、伯父を除いて共通しているのは、皆一様に若い方(30代、40代)であった、ということである。さぞ無念だったことだろう。この場を借りて、改めて亡くなられた方のご冥福をお祈りしたいと思う。

    先程、「久々に」と書いたが、私は小学生の頃、訃報に接する機会が非常に多かった。
    (厳密に言うと、私自身はそういうものだろうと思っていたのだが、親しい友人に話したところ、皆に「それは多いねぇ…」という反応を返され、そうか、多かったのか、と知ったのである。)
    祖父母が高齢であったことも影響しているだろうが、それ以外に、同級生や近所の友人などの死にも複数遭遇していることが大きい。
    そのためか、私の中には「死後の世界」というものへの恐怖と興味がないまぜになったような感情が、ずっと心の底に、澱のように残っている。
    人は死んだらどこへ行くのだろう?
    私が死んだら、私が生きていた間の記憶はどこへ行くのだろう?
    そんなことを考えては、眠れない夜を過ごしたことも多かった。
    さすがに今では、「生命あるものはいつか死ぬものだ」ということを理解し、だからこそ、生きていることが奇跡に近いことなのだと感じられるのだが、お子様だった私は、そんな達観もできないまま、ただ悶々と過ごしていた。

    最近よく考えるのは、「脳死」についてだ。
    きっかけは、軽いと言われるかもしれないが、私が一番好きな漫画・「僕の初恋をキミに捧ぐ」(青木琴美・著、小学館)である。この作品をきっかけに、私はドナーカードを所持し、自分が脳死判定を受けた際には、全ての臓器提供を行う意志表示をするようになったほどだ。
    で、心臓移植を迫られた主人公の少年が、移植のことを医師に聞く前のモノローグに、このような一節がある。

    「心臓は記憶するか?」

    家族のこと、好きな女の子のこと、友達のことなど、忘れたくない記憶がたくさんある中で、人の感情がどこにあるかわからない不安から出てくるモノローグである。
    同時に私は考えた。「では、脳死になった人の感情はどこへ行くのだろう?」と。
    結局、医学の発達と同時に、生と死の境界線は曖昧になりつつあり、「天寿を全うする」などということも、どこまでを以て言えるのかが分からなくなってきた。
    もちろん、生命が救われるのは素晴らしいことだ。
    でも、どんなに医学が発達し、治せる病気が増えていっても、いつか必ず、死は訪れる。
    その時に、私たちが目にする世界はどのようなところなのだろう。
    そもそも、死を迎えた後の私は、私のままであるのだろうか。
    様々なことを経験し、少しずついろいろなことを感じ、考えるようになった自分が、完全に消えてなくなってしまうのであれば、それは抗うことはできないけれど、あまりにも寂しい。
    そうは言っても、結局自分の死を迎えない限り、答えは出ないのだけれども。
    それならば、やはり今幸運にも生かされている自分が得られる感情を、ひたすら大切にしていくしかないのだろう。あまりにも優等生すぎる答えなのかもしれないが、今の私は、そんなことを思うのである。

    第七回 「オカルト嫌い」

    • 2011.01.26 Wednesday
    • 09:18

     皆さん、どんな年末年始をお過ごしでしたか。



    「正月は 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」(一休宗純)



    っと、いきなり重いかい?
    でもね、生を深くするには、死を考えなきゃならないのです。



    僕らは、どうにも生を謳歌したくなる性分で、死については随分とぞんざいな扱いをしてきたと思う。
    たとえば、葬儀場なり、火葬場なりを新規に造ると、決まって住民の反対運動が起きる。
    葬儀の実際として、火葬場が混んでいる為に日程が決まらないということすらあるのに、新規の火葬場はなかなか造れない。
    これは、遡れば「ハレとケ」の思考に行き着く。
    今回はそこまで行かないけれど、いつかそれについては書こうと思っている。



    さて。
    死は、どうして忌避されるのだろう?
    霊柩車を見たら親指を隠せだの、霊障がどうのだの、忌避の根幹は「オカルト」にしか思えないのが、僕の感想だ。
    人は、必ず死ぬ。
    誰もが知っている自明のことなのに、死はまさに「彼岸」のこととして僕らの前に立っている。
    この自明さは、量子のスピンなんかよりもっと真に迫った自明さだ。
    科学が世の理を明らかにし、人々の不安を取り除いたのは歴史を振り返れば明らかだが、死という生物始まって以来の理は、人々の不安を取り除くどころか、暗黒の世界に突き落とすかの如きチカラをもっている。



    科学的に考えてみようか。
    科学の大事な要点は、「反復可能であること」、「追試が可能であること」、「帰納、演繹ともに成立すること」の三点だろうか。
    水素を空気中で燃焼させると水が出来る。
    2(H2)+O2→2(H2O)という反応式だ。・・・中学校でやったよね。
    また、
    HCl+NaOH→NaCl+H2Oなんて式もあったでしょ?
    塩酸に水酸化ナトリウムを足すと、中和点で食塩水が出来る、ってアレ。
    どちらも、先の三点をクリアできる実験だ。



    さて、死はどうだろうか。
    厳然とした事実ながら、「科学的に解明できない」事柄であることがわかる。
    上記、科学的要件三点に、どうにも合致しないからだ。
    一つの個体においての死は、反復できないし、追試もできないし、帰納、演繹ともに可能であるかも判らない。
    ここに、事実と科学の乖離がある。
    僕らはいつの間にか科学が事実だと思い込んでいる。
    けれどその反面、「科学で全ては解決できない」とも思っている。
    そこに滑り込むのが、死だ。
    科学のイディオムで説明が出来ないから、そこに「オカルト」が入り込んでくるのだ。
    オカルトは、科学ではない。断言する。
    けれど、オカルトの文脈には、科学的文言が散りばめられている。
    科学の、今ひとつの要件に「因果の確定性」がある。本当は、高等科学においてその確定性はかなり危うい立場にいる。
    オカルトの下手人は、因果という言葉を巧みに駆使し、人を惑わす。
    曰く「ご先祖が・・・」、「以前の行いが」、果ては「あなたの前世の方が」。
    こんなコトバで、何の根拠もない「因果」を勝手に設定し、科学と非科学の隙間へ入り込むのが連中の常套手段だ。
    だから、高等科学の限界なんぞ知ったこっちゃない僕らは、「適度に科学的」なオカルトに嵌るのだ。



    じゃ、オカルトに嵌らないためにはどうしたらいいか。
    科学を知ることに尽きる。
    科学は数式だけで語れるものじゃない。
    僕らの生活に根ざした、しっかりとした基盤を持っている。
    生活家電を見なさい。あれらには、びっくりするくらいの「科学」が詰まっているんだから。

    2010年最後のご挨拶

    • 2010.12.31 Friday
    • 13:33
    2010年も、とうとう今日で終わりでございます。
    皆様にとりまして、どのような1年でしたでしょうか。
    今回は、2010年ラストということで、
    「テキトー時評」初の動画版をお届けしたいと思います。
    まずはこちらでご挨拶。Openingトークです↓




    そして、一応今回、一発撮りの歌をご用意させていただきました。
    撮影順でご紹介↓
    「Beautiful days」(嵐カバー・月島ver)


    「One more time,One more chance」(山崎まさよしカバー・キクチver.)


    「BE TOGETHER」(TMNカバー・キクチver.)
    唯一の一発撮りにならなかった曲で、TAKE1とTAKE2があります。
    TAKE1は、トークが伸びて曲が切れました…。




    「M」(PRINCESS PRINCESSカバー・月島ver.)


    そして、本年最後のご挨拶。Endingトークがこちら↓


    動画でもお話しさせていただきましたが、本年は、大変お世話になりました。
    2011年も、どうぞよろしくお願いいたします。
    来年も、ブログやライブで皆様にお会いできますことを楽しみにしております。
    皆様にとって、新年が幸多きものになりますように…。

    キクチトシオ
    月島華凛

    第六回 「KAGEROU」

    • 2010.12.24 Friday
    • 23:20
    チョコレートケーキを食べて、ご機嫌の月島でございます。
    クリスマス・イブの夜、なんで私はPC相手にこんな格闘技をしているんだろう…???
    いえね、私がキクチさんに「次は書評にしてね」と言ったのには、理由があるのですよ。
    このブログ、「時評」と言っている割に「テキトー」の部分があまりにも勝っていて、その時々のことをあまり書かずに来たでしょう?
    で、たまたま私が今まさに時の本である物をゲットしたため、それをネタにしようかな、しかもこれはミーハー月島ならではのネタだよなぁ、と思って、私がこの本の書評をやりたいと思ったため、キクチさんにもお願いした次第です。
    そしたら「ドグラ・マグラ」ときたもんだ…本気でネタ変えを考えましたが、敢えて今、賛否両論あるこの本に真っ向勝負・若干辛口目で挑みます。
    齊藤智弘氏の「KAGEROU」です。新作のため、ネタばれしない程度のラインでいこうと思います。ネタばれありの更に辛口バージョンのご希望が出たら…その時考えます(笑)

    主人公は、会社をリストラされ、食うにも困るようになった一人の40歳の男・ヤスオ。
    41歳の誕生日の前日に死のうと、デパートの屋上からの飛び降りを決行しようとしたところを、「全日本ドナー・レシピエント協会」という謎の組織の男・キョウヤに引きずり降ろされ、ドナーになる契約を交わすところから物語は始まる。
    ドナーとは臓器移植において臓器提供をする側の人、レシピエントは提供を受け入れる側の人のことであり、「全ド協」は、ドナーの肉体を金銭で買い取り、レシピエントに最先端の技術で臓器や四肢など、ドナーのありとあらゆる肉体の部位を全て提供していく、その仲介の裏組織であった。キョウヤ自身も、かつてレシピエントとなった一人である。

    実は、これ以上あらすじについて触れるとほとんどネタばれになるので、私自身のこの本の解釈のポイントとなった点を整理していこうと思う。

    まず一つ目。私が最も気にするのはタイトルである。「KAGEROU」とあえてローマ字表記をしていたところに、私は何か裏があるのではないかと考えた。
    ひらがなでもカタカナでも、漢字でもなく、ローマ字の「KAGEROU」。
    しかし、作中では、このローマ字表記は一切登場しない。正直読み手として、このタイトルの付け方、捉え方には、いまだに苦慮している。
    「蜻蛉」でも「陽炎」でもない。おそらく作者は生命の儚さを意識して「蜻蛉」の意味合いを強くしているのであろうと当初考えたが、逆に生命の強さ・揺らめきという意味で、「陽炎」の意味と捉えることもできる。ダブル・ミーニング(掛け言葉)を意識することは、レトリックとしてよくつかわれる手法であるが、しかしこの作品においては、かなりの深読みをしたうえで、に過ぎず、あまり文章からはそういった意図が伝わってこないのだ。故に「なぜ?」という疑問が残り、この辺りでもう少し私の読解を深めていく必要があるかもしれない。

    二つ目は、文体である。これについては、齊藤氏の文学大賞受賞の際に、かなり様々な専門家の方が指摘をされていたが、要は、良くも悪くも平易な文体なのである。
    従って、活字を読むことに慣れていない方にとっては、私はある意味、興味本位から入るという意味でも、いい本かもしれないとは思っている。
    しかし、私が一番気になったのは、あまりの直喩の多さである。おそらく、視覚的要素を文中に散りばめることによって、読み手に情景をはっきりと描かせようとしたのだと思われるが、私はこれに関しては、完全に裏目に出たと思っている。直喩により、文体が少々子どもっぽく感じられるようになってしまったことと、あまりにもはっきりと情景や人の様子を思い描けるようにしてしまったことにより、読み手が想像をする隙が、ほとんど存在しなくなってしまったのだ。映像にするにはいいかもしれないが、小説として存在させるつもりの作品であれば、読み手に委ねてくれるところが欲しい。もちろんこれは、読み手の好みにもよるのであろうが。

    最後に私が気になったのは、やはりラストの落とし所である。
    報道等でご存知の方も多いだろうが、作者は「命」をテーマにした、と明言している。
    そんな報道を見なくても、自殺、ドナー、レシピエントというあたりからそれははっきりしており、逆にいえば、「読めてしまう」部分も多々あった。「命」をテーマにする=「自殺」や「病気」を絡めていく、というのは、あまりにもストレートな手法である。ただこれも、先程の文体の話と同じで、活字離れした人間にとっては、下手に難しく、深読みを必要とする作品は投げてしまう可能性が高いので、今の時代に「本を手に取らせる」ためには、これくらいのわかりやすさが必要なのかもしれない、とも思う。
    しかし、そうなった時に、どこに落とし所を持ってくるかということが非常に重要なポイントになる。読み手の読後感につながるからだ。
    個人的には、読後感は悪くはない。が、少々きつい言葉で書かせてもらえれば、ご都合主義感も否めない。そんなラストであった。
    「命」をテーマにすると、結局その登場人物の生死に読み手の関心は集まる。作者としては、生きたのか、死んだのか、ということは二の次なのだろうが、やはりストーリーとしてすっきりするものを読み手としては求めたいだろう。
    そういう意味でこの作品は、読後感は決して悪くはないのだが、腑に落ちない部分がどうしても存在するのだ。それは、最後のキョウヤの扱いについてである。
    主人公はヤスオである。だから、彼の心の変遷がしっかり見えたのは素直に素晴らしいと感じた。と同時に、物語の中核を担っているキョウヤの扱いの最後がこれなのか、と、私は少なからずがっかりしたのである。
    登場人物が少ない分、それぞれに納得のいく結末を用意してあげてほしい、と私は思っている。このラストに納得のいく方もいらっしゃるかもしれないが、少なくとも私は、キョウヤという人物の扱いが、最後の最後になってあまりにも軽くなってしまったように感じられてならなかった。
    ヤスオの人生を描くことがメインであっても、キョウヤはそこに深く関わった人物であり、しかも、あらすじのところで前述したように、キョウヤはかつてレシピエントの立場であった人間で、人の生死を誰よりも数多く見てきた人間だ。彼の人生についても、きちんとした落とし前をつけてあげるべきだ。その点に、この作品の最大の欠陥があるのではないだろうかと、私は考える。

    とはいえ、処女作で、ちょっとしたミステリーのテイストと、ファンタジーのテイストを織り交ぜながら、人間の普遍のテーマである「命」を描いたということに関しては、評価に値する作品だと思う。
    個人的には、できれば次回作も「命」をテーマにするのであれば、今作の主人公・ヤスオよりも、もっとより深いところからの「生」への執着心と叫びを、作品から聞き取りたい。そんなことを期待している。ヤスオの叫びは、まだ綺麗すぎる。そんな印象が、一番強かったからだ。

    第五回 「ドグラ・マグラ」

    • 2010.12.23 Thursday
    • 20:13
     月島先生からお題をいただきまして。
    「キクチさん、次は書評にしてね」ですって。

    さてさて。
    いろいろ本は読むのだけれど、こう言われると、かえって悩む。
    誇れるほどの読書量ではないのだけれど、ともかくジャンルが雑多なので、「書くべき本」というものが絞り辛いのが正直なところ。
    が、ここで引き下がるのもなんだし、一丁挑んでみよう。

    「ドグラ・マグラ」(著:夢野久作)でいこうか。

    僕は、この作品が「完全な小説」の一つだと思っている。
    異論は当然あるだろうけれど、小説という「思い込み」を、トコトンまでぶち砕くエネルギーを持った作品なんて、そうお目にかかれるものじゃない。
    あらすじを要約しよう。安心していい。いわゆるネタバレをしても、この作品は一切の傷がつかない。どうだ、凄いだろう。
    だから、この文章を読んだ上で作品を読んでも大丈夫だ。

    殺人の嫌疑のかかったある青年が、病院に入れられている。
    しかも、どうやら記憶喪失らしい。
    その記憶を取り戻そうと、二人の精神科医師が実験的治療を施している。
    治療の一環として、青年は医師に本を手渡される。
    書名は「ドグラ・マグラ」だ。

    ・・・と、こんなところから話が始まる。
    続けよう。

    殺人事件は、「婚礼の前夜、青年が婚約者を殺す」というものだった。
    しかも、婚約者たる女―絶世の美少女だ―は一切の抵抗をせずに殺されている。
    この犯人が、主人公たる青年と同一人物かどうかが、作品の主眼となる。
    さて、青年は記憶回復のため、「ドグラ・マグラ」を始めとして、様々な事物を目にする。
    しかし、一向に記憶の扉は閉ざされたままだ。
    青年は「自分」と格闘するうちに、実は二人の精神科医が競争関係にあり、その競争のダシに自分が使われていることを知る。
    「どちらが早く、彼の記憶を取り戻せるか」という競争である。
    青年は怒りを覚えるが、確たる「自分」がない己にそのような怒りが生ずることにさえ不安を感じてしまう。
    学術的研究と、「自己」との相克。
    さて、彼は一体誰なのだろうか?


    こんな塩梅だ。
    僕がこの作品を「完全」と評するのにはちゃんと理由がある。

    ・ストーリーと文章の分断に成功した
    ・あらゆる物語要素が、余すところなく盛り込まれている
    ・また、あらゆるレトリックがふんだんに配置されている
    ・物語の「構造」を、物語自身の「構成要素」として取り込むことに成功した
    ・簡潔な表現で難解な話をし、難解な表現で簡潔に情景を描写するという、離れ業をやってのけた
    ・ここまでの構成力をもちながら、結末がきちんとできている
    ・しかも、結末は読むたびに変わる

    わかるだろうか。
    たとえば「桃太郎」には、何が欠けているか。
    ―鬼の出自である。

    「シンデレラ」には何が欠けているか。
    ―シンデレラのアイデンティティである。

    たいてい、物語には、何かが欠けている。
    ストーリーを重視した物語は論理的破綻をきたすし、プロットに偏重した物語は読んでいて面白くない。
    世界観がきちんと描けていない作品は「小道具」で話を無理やり進めるし、逆に世界観に縛られて闊達なキャラクタが描けない作品もある。

    しかし、この「ドグラ・マグラ」は(前述の作中作ではないほうね)、破綻がない。
    いや、破綻すらも取り込んで読み手の脳髄をガクガクと揺さぶるのだ。
    夢野久作は、いわゆる「奇書」という作品を多く残している。
    たとえば「地獄少女」なんかも、その類に入るだろう。
    作者は何を書きたかったのだろうか。
    それは、文章が文章を離れ、ストーリーがストーリーを離れ、意味が意味を離れ、自己が自己を離れ、時間が時間を離れ・・・すなわち、「小説でしか描けないものは、小説を破壊しなければ描けない」という、ものすごい跳躍をなしたかったのだと思う。

    それは、ブッダの説いた中道を、ナーガールジュナが「空(くう)」として再編集した行為と似ている。
    ブッダは「いきすぎ」を戒めた。
    行き過ぎた禁欲は、つまるところ自己満足にしかつながらない。贅を極めた堕落した生活と、なんら変わらないと喝破した。
    それが「中道」である。
    それを、ナーガールジュナは空として表現した。
    色即是空、空即是色という文句、聞きおぼえがあるだろう。これは、空をよく表した言葉だ。
    ここでいう「色」とは、目に見えるもの全般を指す。
    言いかえれば、「モノは空であり、空はモノである」となる。
    もう少し解りやすくすると、「物事相互の絡み合いのための余地」、とでもなるだろうか。
    モノは絶対に「ある」ものではない。
    「木」が紙になる時、木というイメージは無くなり、「紙」という性質になる。
    紙に印刷がなされ、何枚もの紙が束ねられると今度は「本」という名を持つ。
    こうやってモノは変化していくが、それはモノが絶対でないことを裏打ちする。その裏打ちを「空性(くうしょう)」と呼んだりする。

    空は、無ではない。
    「無」というのは絶対的な「ないこと」を表現する。だから、「空」なのだ。

    夢野久作がどこまでこの「空」を感じていたかは解らないが、僕にはありありと「空」が見えた。
    もうすこし、仏教哲学の話に付き合っていただこう。
    「四句否定」という言葉がある(これは、「テトラレンマ」とも呼ばれることがあるのだけれど、この両者は分けて考えてほしい)。
    こういうことだ。
    ―モノは、あるとは言えず、ないとも言えず、その両者とも言えず、また、その両者でないとも言えない。
    これを本書に当てはめると、ものすごく合点がいく。

    こうなる。
    「『ドグラ・マグラ』には、ストーリーがあるとは言えず、ないとも言えず、ストーリーがあるともないとも言えず、ストーリーの有無を論ずることができないとも言えない」。

    無いということを積み重ねて、あるいは無いということで周りを包囲すると、見えるものがある。
    そこに先の「空」考え方を放り込めば、「ドグラ・マグラ」は、とてもエキサイティングな本になる。
    夢野久作は、ドーナツを描いたのではなく、「ドーナツの穴」を描いたのだ。


    かくして、読書はリンクを作るものでもある。
    けれど、リンクは絶対的ではなく、揺れ動きながらニューロンを駆け巡る。
    その電気信号に一度身を委ねきってみよう。
    「ドグラ・マグラ」なら、その体験が可能だ。

    第四回 「学ぶ」

    • 2010.12.22 Wednesday
    • 01:24
    前回のキクチさんの記事が「遊ぶ」でしたので、今回の私・月島は、恐らく対極になるであろうものを持ってきました。

    「学ぶ」ことが元々は「真似る」というところから来ているということは、結構有名な話だと思う。
    実際に自分が様々なものを学んできた経験の中でも、それは強く感じる。
    いわゆる「お勉強」的なものであっても、アーティスティックなものであっても、スタート地点は「真似事」ではなかろうか。
    いいと思うものを探して取り入れ、消化し、それを自分なりのものにまで昇華させていくということが最終的な「学び」である、というのが、個人的な私の考えだ。

    さて、ここからは少々視点を変えて、教員経験者としての私なりの「学び」についての意見を書こうと思う。
    実は、私はぱっと見の印象からはあまり想像できないらしいのだが、「学び」という点に関しては、かなりシビアに捉えている。
    敢えて一番冷たいと思われる言葉で書くとしたら、「学ぼうという意識のない人は、私の周囲にはいらない」と思っているし、実は教員としての在職時も、クビすれすれの発言をかなりしていた。
    わかりやすいところでいくと、「学ぶ気のない人間が、義務教育でない高校や大学に行く必要はない。なんとなく、という理由で授業を受けたり受験をしたりするくらいの意識なら、私の授業から出て行きなさい」という言葉だ。何度私は教壇で吐いただろう。この言葉で、本当に教室から生徒を追いだしたこともある。間違いなくクレームものだし、実際に保護者からクレームを受けたこともある。
    また、進学先等に関する面談の際に、何故この大学のこの学部に行きたいのか、と尋ねると、必ず「大学くらいは行っておかないといけないと思って…」という理由を述べる生徒がいた。今でも、大っぴらに言うことはなくても、内心そう考えている方はかなりいるのではないだろうか。それに対しても、私は「はぁ?そんなんで受験に受かると思ってるの?」とバサッと切っていた。
    これには実は裏があって、「受かると思ってるの?」という発言の仕方をしてはいたが、これは単純に私の当時の立場が、「生徒を大学に入れること」を仕事にしていたからにすぎず、本当に言いたかったことは、「そんな気持ちで大学に入っても、より専門的になる学問を4年間も学ぶ事は続けていけないよ」ということだったのである。

    そもそも、「学ぶ」ことは、進学しないとできないことなのだろうか。
    日々の暮らしの中で、人との触れ合いの中で、一人で考える中で、「学ぶ」こともたくさんある。
    就職だって、目的意識が明確にあれば、高学歴ということに固執はしないはずだ。
    私自身がストレートで修士まで出ているので、「説得力がない」と言われたこともあるが、私は「学ぶ」ことを追求したくて、どうしても学びたくて、両親に無理を言って進学した。
    能力的にはごく普通の人間だとは思うが、「学ぶ」意識と、取り組む姿勢だけは負けないでいたつもりだ。
    そして、そうやって真剣に取り組むことによって、自分自身の中に芽生えるものがある、というのが、私が学生生活を通して得た一つの結論である。
    そして何より、学力だけが「学ぶ」ことの全てではない。むしろ、人生の中においてはほんの僅かな部分に過ぎず、人としてきちんと学ばなければならないことは、「お勉強」以外のところにあることがほとんどだと思っている。
    それが家庭でも学校でも教える人間が少なくなり、機能しなくなったからこそ、学級崩壊やモンスターペアレント等の問題が出てきていると、私は考えている。肝心の大人たちが「学ぶ」ことの本質を理解しておらず、思考が偏重しているのだから、子どもたちに学びを求めるというのも無理な話であろう。

    生きていく以上、私たちは死ぬまで、様々なことを学び続けていかなければならないだろう。
    でもそれは、あくまでも能動的なものでなければ意味がない。
    自分が選んだことである、ということを肝に銘じておけば、「学ぶ」ことも決して苦ではないはずだ。
    何故私たちは「学ぶ」のか。特に、これからを生きて、社会を引っ張っていく若い人には、一度真正面から真剣に考えてほしい。
    あらゆる面で、人として、より豊かになるために。
    そして私自身も、生きていく日々の中で、常に何かしらを学びながら過ごしていきたいと、そんな風に思っている。

    第三回 「遊ぶ」

    • 2010.12.21 Tuesday
    • 01:37

     目的意識、という恐ろしい言葉がある。
    最近の世の中の金科玉条みたいなんだけれど、僕にはどうも馴染みが良くない言葉だ。
    目的がないまま何かをするのは罪悪で、タダシイコトは目的の向こうにあると、有言無言問わずかまびすしいったらありゃしない。


    例えば、目的地のないまま電車に乗る楽しみは、遡れば、少年時代のいつ終わるともしれない野球やサッカーの試合の楽しさだ。
    僕の小学校時分の話だが、人数が足りなくとも野球をやり、小学校のグラウンドではひと向かいのゴールだけで、同時に4試合が行われた。
    どちらも、基本ルールだけは遵守し、あとは面子や状況に応じ細則を柔軟に変えることで、困難な状況に見事に対応した。
    「あいつはコントロールが悪いから、フォアボール無しな」、「あの木の張り出した枝を越えたらツーベースでいいよね」そんな感じにね。
    また、4試合同時開催という、一見無茶なグラウンドでは、整然と試合が行われていた。
    こういう塩梅だ。
    ゴール前の競り合いが重なると、大抵は上級生の試合を優先させた。そんな時、僕らは一旦プレイを止め、上級生の結果−ゴールキック、コーナーキック、グラウンドセンターからのプレイのいずれかだ−を受けてから自分たちのゲームを再開する。攻め込まれた側も、それがどんなに不利な状況でもズルはせず、見事に「さっきの」状況からの再スタートとなる。
    何が言いたいって、ルールとフェアさには、何の連関もないということ。
    または、ルールでは表せないフェアさがあると思うのだ。
    ここにはまた、高尚な目的意識が無い。
    ただ、その場を楽しむための「知恵」が存分に発揮されているだけだ。


    遊ぶという本質は、こういうところにある。
    楽しむために遊ぶのではなく、遊ぶために遊ぶ。


    この世の中、「遊び」が無いと思う。
    コンプライアンス、リテラシー、個人情報保護・・・仕事の中に、どうしてこんなコトバが溢れるのだろう。
    それは、僕らがアソビにかまけて「遊び」を忘れてしまったからではないだろうか。


    17時からが遊びの時間じゃあないのだ。
    大人は、仕事でこそ遊ばなきゃならない。
    遊んで、遊んで、遊びつくして。そこには職業倫理なんて存在しない。存在する必要が無い。だって、その場を楽しむための「知恵」を存分に発揮すればいいのだから。
    そこには、きっといい仕事が待っている。


    楽しくない、と思ってしまったら終わりだ。
    楽しいことは、自分で、あるいは自分たちで見つけるものだ。
    そうすれば、楽しむことから始まり、楽しむことで連環ができ、更なる楽しみが産まれる。


    遊べないなら、一日一つ、冗談を考えよう。
    こんなちょいと堅めの文章を書く僕は、何より人を笑わせることが大好きだったりする。


    一つ笑顔を作ることが出来れば、そこにもう一つ笑顔が出来る。
    他でもない、あなたの笑顔だよ。

    第二回 過去を見ること

    • 2010.12.17 Friday
    • 01:20
    月島華凛でございます。
    キクチさんが露払いなら、私は太刀持ちでしょうかね?
    第二回目は、私が書かせていただきます。暫しお付き合いくださいませ。

    まずはちょっとした昔話を。
    実は私は、幼稚園から小学生にかけて、凄まじいくらいの星座オタクでした。
    全88星座言えるのはもちろん、満天の星空から、星座を見つけ出すのもお手の物でした。
    それがいつしか完全文系の頭になってしまったのは、親にねだった天体望遠鏡を買ってもらえなかったところからスタートすると思っているのですが、実は私の興味・関心の根源は、あまり変わっていないのではないか、ということに気がつきました。

    それは、「過去を見ること」。

    皆様もご存じでしょうが、天体の光というものは、「光年」という単位で示す通り、地球に届いて私たちの目に入るまでに、長い長い時間がかかります。私たちが見ている星の光は、私たちが生まれる前に出現した物ばかりです。
    はるか遠い昔に生み出された光が、時代を超えて、今私たちの目の前にあることに、とてつもないロマンと不思議さを感じるのですね。だから、今でも私は天体を見ることは大好きです。
    その感覚というのは、実は私が古典文学を学びたいと思った経緯と似ています。
    私の卒業論文のテーマは「蜻蛉日記」。藤原道綱母が書いた、平安時代の女流日記文学の先駆けです。
    (余談ですが、入試問題としては、この作品は主語確定が難解なため、いわゆる上位校と呼ばれる大学が出題するのが好きな作品の一つでもありますね)
    では、星の光を見ることと、古典文学を読むことのどこが似ているのか。
    はるか昔に生み出されたものと、現代の私たちが感じ取るものが、ほとんど同じであるという点です。
    例えば私が卒論のテーマに選んだ「蜻蛉日記」。
    夫に捨てられた女の悲哀、惨めさ、新しい女への嫉妬。そして子どもへの愛。
    もちろん、現代とは全く時代背景が異なりますから、そこの学習は必要になりますが、基本的に、書いてある心情というものは現代にも通ずるものであり、「過去を見ること」によって、昔の人と感情を分かち合えるというところに、私は面白さを感じました。
    時代が変わってもなお、人間の心は変わらないのです。
    はるか昔に書かれたものが、私たちの共感を呼ぶ。
    はるか昔に生まれた光が、私たちに美しいと思う心を呼び起こす。
    これって、ものすごい力だと思うのですよ。
    こじつけかもしれないけれど、「人というものの本質は、そう簡単に変わらない。」私はそんな風に思います。

    私の家の周囲は、夜、あまり明るくないので、私はたまにこっそり家を抜け出して、星を見に行くことがあります。
    そしてふと、「ああ、あの星の光は、もしかしたら藤原道綱母が日記を記していた頃に生まれた光なのかもしれないな」と思ったりもします。
    同時に、今宇宙で生まれ出づる星の光は、はるか未来にこの地球に届きます。そのころの地球はどうなっているのだろう。明るい未来になっているだろうか。それとも、想像もつかないような凄惨な未来になっているだろうか。世界終末時計が行ったり来たりしているこの時代の中では、まるで見当もつきません。
    それでも、宇宙には星があり、地球には人がいる。星の輝きも、人の抱く思いも、きっとそう大きくは変わらないでしょう。
    過去を見、今を見つめて、更に未来へと繋いでいく。それが、現代に生きる我々に課せられた一つの使命だと思いながら、それでも何ができるかわからずにもがいて生きる。
    私自身、常にそのようなことを意識して生きているわけではありません。自分自身のことで手いっぱいになることがほとんどです。
    でもほんのちょっとだけ、大きなことを思い描く時も必要なのかな、と感じながら、今の私は、毎日を過ごしています。

    第一回 かなたとこなた

    • 2010.12.16 Thursday
    • 18:44
    さて、始まりましてございます。
    題して「キクチ・月島のテキトー時評」。

    露払いはワタクシ、キクチがお勤めいたします。




    まず一つ目のテーマ、何にしましょうかね。
    ・・・と、書棚を漁ると出てきたよ、「BEYOND」(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%83%89-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4105451014/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1292489071&sr=1-1)という写真集。
    これは凄い。
    写真集でありながら、「人が撮った写真」はたったの1枚だけ。
    後は、観測機や人工衛星からのデータ画像で構成されている。
    僕らの居る太陽系のポートレイトは、人間の手に余るということらしい。

    唐突だけれど、皆さんは土星の輪を見たことがあるだろうか。
    あるいは、木星の帯を見たことがあるだろうか。
    もっと身近であるならば、月のクレーターを見たことがあるだろうか。
    ないならば、見たほうがいい。
    道具は簡単だ。ちょっとした、口径5cmくらいの望遠鏡があれば、この三つを見ることができる。
    予算は・・・2万円は掛からないだろう。
    月のクレーターだけならばもっと手軽だ。
    倍率8倍程度の双眼鏡があれば、驚くような世界が眼前に広がるだろう。
    荒涼とした月の砂漠や急峻な地形は、僕の認識を、ぼんやりと見上げていた「お月様」ではなく、天体としての「月」へと様変わりさせる。

    人は、遠くへ行きたがるようだ。
    実際にめいめいの「ここ」を離れて旅に出ることもあるし、知を得るということも「遠く」を目指す志向の一端だ。
    「彼方」は、どうにも名状しがたい魅力を持っている。
    メーテルリンクを呼ぶまでもなく、あるいは銀河鉄道に乗るまでもなく、僕らは「彼方」に憧れてきた。
    それは「此方(こなた)」をないがしろにしてきた歴史でもあるのだけれど。
    ガリレオやコペルニクスが夜空を見上げている間、シェイクスピア(ガリレオと同年生まれ)は芝居で人々をいざない、トマス・モアは己が楽園を描いた。
    また、雪舟が紙の上に宇宙を繰り広げたのもこの時代だ。

    さて、この写真集。
    彼方と此方を体感できる稀有な本だ。
    惑星の写真集というと、頭の中で理科の教科書をめくりなおし、「太陽系は太陽を中心とした8つの惑星で構成されている」、「惑星には二種あり、岩石惑星とガス惑星がある」、「またその両者の間−火星と木星の間−には小惑星帯があり、太陽系形成のプロセスの一つのヒントを提示する」・・・なんて文言が出てきそうだけれど、この写真群はそんな薄っぺらなコトバを、いとも簡単に吹き飛ばす。
    たとえば木星の荒々しい雲の写真は、美しさよりも不気味さを感じさせるし、あるいは土星の輪の精細な画像は、本当に同じ世界のものかと疑うような壮大さを持って僕に迫る。

    人間は、まだ月までしか到達していない。
    距離にして、38万キロメートル。光の速度で1秒ちょっとで到達する距離が、僕らの「此方」の限界だ。
    人造物はというと、33年前に打ち上げられたボイジャー1号が、170億キロメートル先で飛翔中だ。
    これを光の速度に換算すると16時間で届く距離になる。光って、速いね。さすが。人智の33年分を、半日くらいで飛んでいくのだもの。
    ボイジャーの居場所は随分遠いように聞こえるかもしれないけれど、これでもまだ「太陽系の中」(!)。
    太陽系は外縁部も含めると直径が大まかにいって1光年くらい。・・・結構広い?
    ところで、太陽系は何処に位置しているかというと、我が銀河系の「オリオン腕」という渦の一筋の中にある。
    銀河の中心からおよそ2万5000光年の位置だ。もう桁が1万倍になっちゃった。
    ちなみに銀河系の直径は平均して30万光年ほどだという。
    これでも、ご存知の通り宇宙のほんの一部でしかなく、広大無辺な宇宙は150億光年先まで広がっている。

    ここで、もう一つ本を紹介しよう『望遠鏡が宇宙を変えた〜見ることと信じること』 著:リチャード・パネク(http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1%E3%81%8C%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E2%80%95%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%AF/dp/4487796652/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1292488951&sr=1-1)。
    天文学史を、望遠鏡という道具の側面から捉えた名著。
    内容は、というと・・・こんな感じ。
    星の話に付き物の「光」。天文学者が望遠鏡を使うのは、遠くを見るためではなく、「より多くの光を集めるため」だ。
    人間の瞳孔は真っ暗闇でも7mmくらいまでしか開かない。
    が、望遠鏡を使えば、その対物レンズの口径の分だけ光を集めることが出来るから、擬似的に瞳孔を広げることが出来るというカラクリ。
    面積比でいうと、口径5cmの望遠鏡の集光力は肉眼の50倍以上になる。10cmまで広げると、その差は実に200倍!
    このように、口径を大きくすれば多くの光を取り込むことが出来、より暗い星のほのかな瞬きも捉えられるようになる。
    でも、そこにも限界がある。人間の目は、光を取り込むことが出来ても「貯める」ことが出来ない。
    光の粒子の一つ一つを感知できても、それは一瞬で神経に取り込まれて消えてしまうのだ。
    そこに、写真技術が参入する。写真は、実は光の積み重ねで出来ている。
    通常は数百分の一秒という短い時間でシャッターを切るが、コレを長くするとどうなるか。
    例えば1時間。1日。1ヶ月・・・。夜空の同じ場所をずっと長く撮影すると、見えなかったものが見えてくる。人間の目ではわからなかった微細な光の粒子が、長い時間を掛けてフィルムの上に積み重なっていくのだ。
    ここで、天文学は長足の進歩を遂げる。

    この本を読むと、遠くを見ることは過去へ遡ることだということが良く実感できる。
    アタマの方に書いた僕の実体験−木星や土星の話−にはもう一つ、得も言われぬ体験があって、僕は200万年前の光を見たことがあるのだ。
    その源はアンドロメダ星雲。この大地から200万光年先の銀河だ。
    そのとき僕の眼に届いた光は、200万年の長い旅を経て、僕の瞳孔へ飛び込み、網膜で電気信号に変換され、脳に取り込まれた。
    200万年!僕らを遡ると、やっと人類としての「ヒト」が進化の枝別れに差し掛かったころ。
    また、現在の伊豆半島が本州にぶつかったのもこの頃だ。
    現在と恐ろしいほどの昔の邂逅は、光の「もがき」をも想起させる。
    「今」のアンドロメダ星雲の姿は見ることが出来ない。宇宙最速の光をもってしても、そう、常に200万年前の彼女の残像を追うしか出来ないのだ。
    スケールを大きくしていくに従って、空間を意識した「此方」と「彼方」は、いつしか時間を伴った「此方」と「彼方」へと変わっていく。
    時空は繋がっている−面倒な数式を使わずとも、こうやって時空連続体は感得できるのだ。



    翻って、考える。
    そうすると、僕らは常に「過去」を見ているのだ。
    どんなに近いものでも、光をもってものを見ている限り、光の移動速度以上の感知は出来ないし、感知しても脳内に伝達され知覚するまでのタイムラグは避けられない。
    タイムラグがどんなに短かろうと、感知した段階ではもう「今」ではなく「過去」なのだ。
    「今」は常に僕らを取り巻いてはいるが、実は捉えられないものだという、一種奇妙な実体が見えてはこないだろうか。
    少々乱暴かもしれないが、僕らを取り巻いた「今」こそ、実は永遠にたどり着けない「彼方」である、と感じて欲しいのだ。




    さぁ、思考の実験はここで終わり。
    もしあなたがこの文章で「浮遊感」や「気持ちのざわつき」を汲んでくれたなら、僕の目論見は一応の成功をみたことになる。



    そうだ。今のあなたなら解るかもしれない。
    つい先日、日本の観測衛星が軌道投入に失敗してしまった、なんて出来事があった。
    それは「此方」が「彼方」に追いつけなかったということなのだ。

    ご挨拶

    • 2010.12.16 Thursday
    • 18:02
    皆様こんにちは。

    突如始まりました謎企画ブログ「キクチ・月島のテキトー時評」。
    日頃はミュージシャンとして活動しているキクチトシオと月島華凛が、交代で、時に連動しながら、好き放題に書いてみようではないか、という企画でございます。
    ご存知の方もいらっしゃると思いますが、キクチ・月島共に、基本はソロのミュージシャン。
    ただ、月島のサポートをキクチが行ったりしていることで、このカップリングでのライブMCをご覧になっている方もいらっしゃると思います。
    MCの評判が思いのほか良かったことから、双方が調子に乗って、こんなブログが生まれてしまいました。(←他人のせいにしないように)

    「テキトー時評」というタイトル通り、まさにテキトー好き勝手、going my wayで双方書き進めていくと思います。
    ミュージシャンだからと言って、音楽が主体のブログになるわけでは決してありません
    むしろ音楽の話題が出てくることは皆無に近い可能性が高いです。(←何なんだ、お前たちは)
    読者の皆様も、肩の力を抜きつつお楽しみいただければ、と思います。

    じゃあ、どんなブログになるかって?
    それではまずは、キクチの記事をご覧くださいませ。明日は月島が担当します。
    キクチと月島がお届けする、音楽とは全く違った形でのエンターテイメントです。
    皆様のお口に合えば、幸いに存じます。