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- 2011.02.11 Friday
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皆さん、どんな年末年始をお過ごしでしたか。
「正月は 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」(一休宗純)
っと、いきなり重いかい?
でもね、生を深くするには、死を考えなきゃならないのです。
僕らは、どうにも生を謳歌したくなる性分で、死については随分とぞんざいな扱いをしてきたと思う。
たとえば、葬儀場なり、火葬場なりを新規に造ると、決まって住民の反対運動が起きる。
葬儀の実際として、火葬場が混んでいる為に日程が決まらないということすらあるのに、新規の火葬場はなかなか造れない。
これは、遡れば「ハレとケ」の思考に行き着く。
今回はそこまで行かないけれど、いつかそれについては書こうと思っている。
さて。
死は、どうして忌避されるのだろう?
霊柩車を見たら親指を隠せだの、霊障がどうのだの、忌避の根幹は「オカルト」にしか思えないのが、僕の感想だ。
人は、必ず死ぬ。
誰もが知っている自明のことなのに、死はまさに「彼岸」のこととして僕らの前に立っている。
この自明さは、量子のスピンなんかよりもっと真に迫った自明さだ。
科学が世の理を明らかにし、人々の不安を取り除いたのは歴史を振り返れば明らかだが、死という生物始まって以来の理は、人々の不安を取り除くどころか、暗黒の世界に突き落とすかの如きチカラをもっている。
科学的に考えてみようか。
科学の大事な要点は、「反復可能であること」、「追試が可能であること」、「帰納、演繹ともに成立すること」の三点だろうか。
水素を空気中で燃焼させると水が出来る。
2(H2)+O2→2(H2O)という反応式だ。・・・中学校でやったよね。
また、
HCl+NaOH→NaCl+H2Oなんて式もあったでしょ?
塩酸に水酸化ナトリウムを足すと、中和点で食塩水が出来る、ってアレ。
どちらも、先の三点をクリアできる実験だ。
さて、死はどうだろうか。
厳然とした事実ながら、「科学的に解明できない」事柄であることがわかる。
上記、科学的要件三点に、どうにも合致しないからだ。
一つの個体においての死は、反復できないし、追試もできないし、帰納、演繹ともに可能であるかも判らない。
ここに、事実と科学の乖離がある。
僕らはいつの間にか科学が事実だと思い込んでいる。
けれどその反面、「科学で全ては解決できない」とも思っている。
そこに滑り込むのが、死だ。
科学のイディオムで説明が出来ないから、そこに「オカルト」が入り込んでくるのだ。
オカルトは、科学ではない。断言する。
けれど、オカルトの文脈には、科学的文言が散りばめられている。
科学の、今ひとつの要件に「因果の確定性」がある。本当は、高等科学においてその確定性はかなり危うい立場にいる。
オカルトの下手人は、因果という言葉を巧みに駆使し、人を惑わす。
曰く「ご先祖が・・・」、「以前の行いが」、果ては「あなたの前世の方が」。
こんなコトバで、何の根拠もない「因果」を勝手に設定し、科学と非科学の隙間へ入り込むのが連中の常套手段だ。
だから、高等科学の限界なんぞ知ったこっちゃない僕らは、「適度に科学的」なオカルトに嵌るのだ。
じゃ、オカルトに嵌らないためにはどうしたらいいか。
科学を知ることに尽きる。
科学は数式だけで語れるものじゃない。
僕らの生活に根ざした、しっかりとした基盤を持っている。
生活家電を見なさい。あれらには、びっくりするくらいの「科学」が詰まっているんだから。
目的意識、という恐ろしい言葉がある。
最近の世の中の金科玉条みたいなんだけれど、僕にはどうも馴染みが良くない言葉だ。
目的がないまま何かをするのは罪悪で、タダシイコトは目的の向こうにあると、有言無言問わずかまびすしいったらありゃしない。
例えば、目的地のないまま電車に乗る楽しみは、遡れば、少年時代のいつ終わるともしれない野球やサッカーの試合の楽しさだ。
僕の小学校時分の話だが、人数が足りなくとも野球をやり、小学校のグラウンドではひと向かいのゴールだけで、同時に4試合が行われた。
どちらも、基本ルールだけは遵守し、あとは面子や状況に応じ細則を柔軟に変えることで、困難な状況に見事に対応した。
「あいつはコントロールが悪いから、フォアボール無しな」、「あの木の張り出した枝を越えたらツーベースでいいよね」そんな感じにね。
また、4試合同時開催という、一見無茶なグラウンドでは、整然と試合が行われていた。
こういう塩梅だ。
ゴール前の競り合いが重なると、大抵は上級生の試合を優先させた。そんな時、僕らは一旦プレイを止め、上級生の結果−ゴールキック、コーナーキック、グラウンドセンターからのプレイのいずれかだ−を受けてから自分たちのゲームを再開する。攻め込まれた側も、それがどんなに不利な状況でもズルはせず、見事に「さっきの」状況からの再スタートとなる。
何が言いたいって、ルールとフェアさには、何の連関もないということ。
または、ルールでは表せないフェアさがあると思うのだ。
ここにはまた、高尚な目的意識が無い。
ただ、その場を楽しむための「知恵」が存分に発揮されているだけだ。
遊ぶという本質は、こういうところにある。
楽しむために遊ぶのではなく、遊ぶために遊ぶ。
この世の中、「遊び」が無いと思う。
コンプライアンス、リテラシー、個人情報保護・・・仕事の中に、どうしてこんなコトバが溢れるのだろう。
それは、僕らがアソビにかまけて「遊び」を忘れてしまったからではないだろうか。
17時からが遊びの時間じゃあないのだ。
大人は、仕事でこそ遊ばなきゃならない。
遊んで、遊んで、遊びつくして。そこには職業倫理なんて存在しない。存在する必要が無い。だって、その場を楽しむための「知恵」を存分に発揮すればいいのだから。
そこには、きっといい仕事が待っている。
楽しくない、と思ってしまったら終わりだ。
楽しいことは、自分で、あるいは自分たちで見つけるものだ。
そうすれば、楽しむことから始まり、楽しむことで連環ができ、更なる楽しみが産まれる。
遊べないなら、一日一つ、冗談を考えよう。
こんなちょいと堅めの文章を書く僕は、何より人を笑わせることが大好きだったりする。
一つ笑顔を作ることが出来れば、そこにもう一つ笑顔が出来る。
他でもない、あなたの笑顔だよ。
露払いはワタクシ、キクチがお勤めいたします。
まず一つ目のテーマ、何にしましょうかね。
・・・と、書棚を漁ると出てきたよ、「BEYOND」(http://www.amazon.co.jp/%E3%83%93%E3%83%A8%E3%83%B3%E3%83%89-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/dp/4105451014/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1292489071&sr=1-1)という写真集。
これは凄い。
写真集でありながら、「人が撮った写真」はたったの1枚だけ。
後は、観測機や人工衛星からのデータ画像で構成されている。
僕らの居る太陽系のポートレイトは、人間の手に余るということらしい。
唐突だけれど、皆さんは土星の輪を見たことがあるだろうか。
あるいは、木星の帯を見たことがあるだろうか。
もっと身近であるならば、月のクレーターを見たことがあるだろうか。
ないならば、見たほうがいい。
道具は簡単だ。ちょっとした、口径5cmくらいの望遠鏡があれば、この三つを見ることができる。
予算は・・・2万円は掛からないだろう。
月のクレーターだけならばもっと手軽だ。
倍率8倍程度の双眼鏡があれば、驚くような世界が眼前に広がるだろう。
荒涼とした月の砂漠や急峻な地形は、僕の認識を、ぼんやりと見上げていた「お月様」ではなく、天体としての「月」へと様変わりさせる。
人は、遠くへ行きたがるようだ。
実際にめいめいの「ここ」を離れて旅に出ることもあるし、知を得るということも「遠く」を目指す志向の一端だ。
「彼方」は、どうにも名状しがたい魅力を持っている。
メーテルリンクを呼ぶまでもなく、あるいは銀河鉄道に乗るまでもなく、僕らは「彼方」に憧れてきた。
それは「此方(こなた)」をないがしろにしてきた歴史でもあるのだけれど。
ガリレオやコペルニクスが夜空を見上げている間、シェイクスピア(ガリレオと同年生まれ)は芝居で人々をいざない、トマス・モアは己が楽園を描いた。
また、雪舟が紙の上に宇宙を繰り広げたのもこの時代だ。
さて、この写真集。
彼方と此方を体感できる稀有な本だ。
惑星の写真集というと、頭の中で理科の教科書をめくりなおし、「太陽系は太陽を中心とした8つの惑星で構成されている」、「惑星には二種あり、岩石惑星とガス惑星がある」、「またその両者の間−火星と木星の間−には小惑星帯があり、太陽系形成のプロセスの一つのヒントを提示する」・・・なんて文言が出てきそうだけれど、この写真群はそんな薄っぺらなコトバを、いとも簡単に吹き飛ばす。
たとえば木星の荒々しい雲の写真は、美しさよりも不気味さを感じさせるし、あるいは土星の輪の精細な画像は、本当に同じ世界のものかと疑うような壮大さを持って僕に迫る。
人間は、まだ月までしか到達していない。
距離にして、38万キロメートル。光の速度で1秒ちょっとで到達する距離が、僕らの「此方」の限界だ。
人造物はというと、33年前に打ち上げられたボイジャー1号が、170億キロメートル先で飛翔中だ。
これを光の速度に換算すると16時間で届く距離になる。光って、速いね。さすが。人智の33年分を、半日くらいで飛んでいくのだもの。
ボイジャーの居場所は随分遠いように聞こえるかもしれないけれど、これでもまだ「太陽系の中」(!)。
太陽系は外縁部も含めると直径が大まかにいって1光年くらい。・・・結構広い?
ところで、太陽系は何処に位置しているかというと、我が銀河系の「オリオン腕」という渦の一筋の中にある。
銀河の中心からおよそ2万5000光年の位置だ。もう桁が1万倍になっちゃった。
ちなみに銀河系の直径は平均して30万光年ほどだという。
これでも、ご存知の通り宇宙のほんの一部でしかなく、広大無辺な宇宙は150億光年先まで広がっている。
ここで、もう一つ本を紹介しよう『望遠鏡が宇宙を変えた〜見ることと信じること』 著:リチャード・パネク(http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1%E3%81%8C%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%82%92%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E2%80%95%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A8%E4%BF%A1%E3%81%98%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%89-%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%AF/dp/4487796652/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1292488951&sr=1-1)。
天文学史を、望遠鏡という道具の側面から捉えた名著。
内容は、というと・・・こんな感じ。
星の話に付き物の「光」。天文学者が望遠鏡を使うのは、遠くを見るためではなく、「より多くの光を集めるため」だ。
人間の瞳孔は真っ暗闇でも7mmくらいまでしか開かない。
が、望遠鏡を使えば、その対物レンズの口径の分だけ光を集めることが出来るから、擬似的に瞳孔を広げることが出来るというカラクリ。
面積比でいうと、口径5cmの望遠鏡の集光力は肉眼の50倍以上になる。10cmまで広げると、その差は実に200倍!
このように、口径を大きくすれば多くの光を取り込むことが出来、より暗い星のほのかな瞬きも捉えられるようになる。
でも、そこにも限界がある。人間の目は、光を取り込むことが出来ても「貯める」ことが出来ない。
光の粒子の一つ一つを感知できても、それは一瞬で神経に取り込まれて消えてしまうのだ。
そこに、写真技術が参入する。写真は、実は光の積み重ねで出来ている。
通常は数百分の一秒という短い時間でシャッターを切るが、コレを長くするとどうなるか。
例えば1時間。1日。1ヶ月・・・。夜空の同じ場所をずっと長く撮影すると、見えなかったものが見えてくる。人間の目ではわからなかった微細な光の粒子が、長い時間を掛けてフィルムの上に積み重なっていくのだ。
ここで、天文学は長足の進歩を遂げる。
この本を読むと、遠くを見ることは過去へ遡ることだということが良く実感できる。
アタマの方に書いた僕の実体験−木星や土星の話−にはもう一つ、得も言われぬ体験があって、僕は200万年前の光を見たことがあるのだ。
その源はアンドロメダ星雲。この大地から200万光年先の銀河だ。
そのとき僕の眼に届いた光は、200万年の長い旅を経て、僕の瞳孔へ飛び込み、網膜で電気信号に変換され、脳に取り込まれた。
200万年!僕らを遡ると、やっと人類としての「ヒト」が進化の枝別れに差し掛かったころ。
また、現在の伊豆半島が本州にぶつかったのもこの頃だ。
現在と恐ろしいほどの昔の邂逅は、光の「もがき」をも想起させる。
「今」のアンドロメダ星雲の姿は見ることが出来ない。宇宙最速の光をもってしても、そう、常に200万年前の彼女の残像を追うしか出来ないのだ。
スケールを大きくしていくに従って、空間を意識した「此方」と「彼方」は、いつしか時間を伴った「此方」と「彼方」へと変わっていく。
時空は繋がっている−面倒な数式を使わずとも、こうやって時空連続体は感得できるのだ。
翻って、考える。
そうすると、僕らは常に「過去」を見ているのだ。
どんなに近いものでも、光をもってものを見ている限り、光の移動速度以上の感知は出来ないし、感知しても脳内に伝達され知覚するまでのタイムラグは避けられない。
タイムラグがどんなに短かろうと、感知した段階ではもう「今」ではなく「過去」なのだ。
「今」は常に僕らを取り巻いてはいるが、実は捉えられないものだという、一種奇妙な実体が見えてはこないだろうか。
少々乱暴かもしれないが、僕らを取り巻いた「今」こそ、実は永遠にたどり着けない「彼方」である、と感じて欲しいのだ。
さぁ、思考の実験はここで終わり。
もしあなたがこの文章で「浮遊感」や「気持ちのざわつき」を汲んでくれたなら、僕の目論見は一応の成功をみたことになる。